あの夜、雲間からそっと現れた満月は、まるで誰かの背をやさしく押すかのように、静かに、しかし確かに輝いていた。
場所は、雪が舞い散る北の町。古びた体育館の隅で、観客はまばらだったが、中央のリングでは、魂と魂がぶつかり合うような一戦が繰り広げられていた。熱気に満ちたその空間の隅に、一人の女性がいた。コートの襟を立て、マフラーに顔を沈めるようにして、ただ黙って試合を見つめている。
彼女の名は――久遠ルナ。
かつて“月影のルナ”の名でプロレス界を駆け抜けた天才レスラー。冷静沈着な試合運び、美しい空中殺法、そして相手の心を見透かすかのような読み――そのすべてが彼女を“月の支配者”と呼ばせた。
だが栄光は、永遠ではなかった。ある試合中の事故で、脊椎を損傷し、レスラーとしての生命を絶たれた。満ちていた月は、その日を境に沈黙の闇へと飲み込まれた。
「消えた天才」
「ガラスの月」
かつて称賛を送っていたメディアも、手のひらを返すように彼女を忘れていった。守る者も、共に泣く者も、もういない。
彼女は静かに青森・弘前の故郷へ戻り、ひっそりと小さなジムの受付に収まった。夢を語ることもなく、自らの名前を伏せ、ただ日々をやり過ごすように生きていた。
――だが、その夜がすべてを変えた。
リングの上に立っていたのは、一人の若い女子レスラーだった。圧倒的な体格と華を持ちながら、柔らかな笑顔で戦うその姿に、ルナは心を撃ち抜かれた。誰かに屈するのでもなく、誰かを傷つけるのでもない。技で、魂で、相手の尊厳すら守るような試合運び。
「強さって、形じゃないのね…」
そして、彼女の中で何かが再び、満ちはじめた。
「月って、満ち欠けしても、また必ず満ちるのね…」
その夜、ふと呟いたその一言は、新たな決意の出発点となった。
こうして誕生したのが、新たな女子プロレス団体――「ルナ・パワーズ」。
“ルナ”は、彼女自身の名。
そして“パワーズ”は、選手一人ひとりが持つ異なる「力」の象徴。
肉体的な強さ、精神的な芯の強さ、戦略の冴え、そして一目で人を惹きつけるカリスマ性――
どれもが尊ばれる場所。そこに“たった一つの正解”などない。
ルナは信じていた。
「強さには、形がある。でも、どれも間違いじゃない」と。
月のように――表面はやさしく、裏には凛とした強さを秘めて。
何度も満ち欠けを繰り返しながら、それでも確かに光を放ち続ける存在として。
現在、ルナは団体のGMとして、舞台演出や育成に携わっている。
中でも北爪妃華、そしてもう一人の新星・水瀬光には、特別なまなざしを向けていた。
それは、あの夜に抱いた夢の延長――叶えられなかった自らの夢を、誰かの背に託すという想いでもあった。
夜が更け、体育館の灯りが消えたあと。
彼女は事務所の窓辺で、ひとり日本酒を口に運びながら、空を仰ぐ。
「私が照らせなかった場所を、あの子たちが照らしてくれる」
雲の向こうに、また月が浮かんでいた。
その光は、誰かの心を、今日もそっと照らし続けている。
月の階段――ルナ・パワーズという世界
「月って、段階的に満ちていくでしょう？ それと同じなの。うちの組織も」
ルナ・パワーズの練習場――通称“ルナ・ドーム”の片隅で、若き練習生が水を飲みながら見上げたのは、リングサイドに設置された階層ピラミッドの図だった。シンプルな三角形。だが、そこには彼女たちの夢と試練のすべてが詰まっている。
一番下に描かれているのは、「Moonseed（ムーンシード）」。
月にまだ触れていない、真っ白な存在たち――彼女たちは、まず“種”としてここに蒔かれる。年齢も経験もまちまち。だが共通するのは、「まだ何者でもない」ということだ。
リングに立つどころか、受け身すら満足に取れない者も多い。だが、掃除をする手つき、荷物を運ぶ姿勢、先輩への挨拶――そうしたすべてが、ここでは評価対象になる。プロ志望である必要はない。けれど、誰よりも強く「何かになりたい」と願う心が、この土壌では何より重要なのだ。
ある少女は言っていた。
「まだ自分が何の種なのかも、わからない。でも、ここにいると“芽が出るかもしれない”って思える」
その言葉を裏付けるように、彼女たちは毎日、汗を流し、時に涙をこらえながら、それでもステップをひとつひとつ昇っていく。
中段に位置するのは、「Lunar（ルナー）」。
ようやく月の光を浴びはじめた段階の者たちだ。
彼女たちは、すでに“種”ではない。自らの志でプロを目指すと決め、ふるいにかけられる段階にある。体つきも意志も明らかに変わってくる。SNSでの自己発信、小さなスパーリングイベントへの参加、演出のアングルテスト。観客の前に出ることもあれば、厳しい評価を受けることもある。
この階層では、実力や努力だけでは足りない。人格、人間性、周囲との調和力――すべてが見られる。ここでの評価が次のステージへの通行証となる。
あるルナー候補生がかつて語った。
「プロになりたい。でも、それは“なれる”こととは違う。なろうとすることが、こんなに厳しいなんて……でも、光を感じる瞬間が、時々あるんです」
その“光”を手繰り寄せるように、彼女たちは訓練を重ねていく。
そして頂点に立つのが、「Professional（プロフェッショナル）」。
完全に月が満ちた姿――それがこの階層の象徴だ。
彼女たちはもう、“夢見がち”ではいられない。契約を交わし、年俸を受け取り、メディアに応じ、グッズを販売し、団体の“顔”として、リングで戦う。
タイトル戦線に立つプレッシャー。失敗すれば商品価値が下がり、勝ち続ければ敵が増える。それでも、彼女たちは笑顔を絶やさず、観客の歓声に応える。
なぜならそれが、自ら選んだ“プロの道”だからだ。
あるプロ選手が、新人のムーンシードに向かってこう語っていた。
「月ってね、満ちるまでには時間がかかる。でもね、一度満ちれば、世界中の夜を照らすの。だから焦らないで。あんたの月も、いつかちゃんと、まるくなるから」
その言葉は、まるで月明かりのように、そっと彼女たちの心に灯をともした。
ルナ・パワーズ。
それは単なるプロレス団体ではない。
“月の名を持つ者たち”が、自分の輝きを見つけ、満ちていくまでの、長く険しく、けれど美しい成長の物語。
今夜もまた、誰かが月を目指して、ステップの第一歩を踏み出す。そして誰かが、その一歩を、静かに見守っている。
月の種たち ――Moonseedという名のはじまり
まだ夜が明けきらない時間帯。ルナ・パワーズの練習施設では、すでに汗の音が響き始めていた。誰に見せるでもなく、誰に褒められるでもなく、黙々と縄を跳ぶ女がいる。隣では柔軟体操をする中学生、その向こうではスパーリングの手伝いに入る元レスラー。年齢も立場も、何もかもが異なる者たちが、同じマットの上に立っていた。
彼女たちは「ムーンシード」と呼ばれる存在だった。それは、まだ月の光を知らぬ“種”たち。けれど、彼女たちこそが、ルナ・パワーズの地中に根を張る“未来”だった。
久遠ルナがこの層を何よりも大切にしている理由は明白だった。かつて自らが夢を失ったとき、再び希望を見つけたのは、リングの上で輝く選手ではなく、舞台袖で必死にロープを巻いていた若い見習いだった。その小さな背中に、彼女は“再生の種”を見た。
だからこそ、ムーンシードは単なる練習生ではない。彼女たちは「誰もがプロレスに触れられる場所」を体現する存在であり、年齢やキャリアに縛られない“挑戦者たち”だった。そこには、未来のスターもいれば、健康維持のために通う主婦もいる。過去に引退したレスラーも、異業種から転向してきたアスリートも、みな同じ“スタートライン”に立っていた。
週末には、一般公開の体験会が開催される。プロを志す者も、単に身体を動かしたい者も、リングの上で同じ技を学び、笑い合い、そして倒れる。護身術を学ぶために来た女性が、いつの間にかマットに恋をしていたり、ダイエット目的で来た男性が、翌月には他団体との交流戦に出場していたりする。
ムーンシードには“こうでなければならない”という縛りがない。それが、最大の強さだった。
ルナ・パワーズは、この層の中から光る原石を見出し、やがて「ルナー」として昇格させる。そしてそこから先、わずか数名が、正規所属選手「プロフェッショナル」としてデビューする。その道のりは決して平坦ではない。だが、すべての輝きは、この“種”から始まるのだ。
リングの上だけでなく、SNSの世界でも、彼女たちはその存在を広げていた。ルナ・パワーズの最大の特徴のひとつは、試合中でさえ写真撮影を“推奨”していることだ。推し選手の勇姿を自由に記録し、発信できる。オープンで、共有される舞台。ムーンシードの活動もその例外ではない。
体験会の様子が投稿されれば、「この子、次に来るよ」とコメントが並び、やがて名前もない練習生に応援の輪が生まれていく。団体外部ともムーンシードは密接に関わっている。他団体との合同練習や若手交流試合。その現場の中心にいるのは、プロ選手ではなく彼女たちだ。未来のライバルと笑いながら練習を交わすその時間が、いつか血と汗にまみれた真剣勝負へと昇華されていく。
次回：Luna Mix 築かれつつある女帝国