かつて、「女が闘うこと」は、祈りだった。
やがてそれは、見世物となり、
禁忌となり、
芸能となり、
スポーツとなり、
そして――
ひとつの“美学”となっていく。
今日は、「女が闘う文化」の日本史をたどります。
かつて――
土俵に上がっていたのは、男だけではなかった。
それは神への祈りでもあり、
やがては民衆を魅了する見世物となり、
そして、歴史の闇に消えていった。
今回は、「女相撲」の壮大で、そして儚い歴史を辿ります。
【起源:神事としての始まり】
「女相撲」とは、女性力士による相撲――
その原初の姿は、五穀豊穣を願う神事にありました。
日本最古の記録は『日本書紀』。
雄略天皇が采女にまわしを着けさせ、相撲を取らせたと記されています。
江戸時代、延享元年(1744)。
両国で女相撲の初興行が行われ、庶民の間で大人気となっていきます。
【見世物としての進化】
女力士は、女髷を結い、上半身裸に褌(まわし)。
真剣勝負で向かい合い、その姿は――エロスと力の境界にありました。
【江戸時代――神事から見世物へ】
1600年代。
女相撲の起源は、五穀豊穣を祈る神事でした。
裸足、肌の見える着物、振り乱れた髪で向かい合うふたりの女たち。
やがてその姿は、庶民の娯楽へと転化し、
祭りや見世物小屋の定番となっていきます。
なかでも人気を集めたのが、男女対決や乱闘演出。
ときに女が男を投げ飛ばし、
ときに逆に辱められることで、
“性的興奮”と“信仰”が交差する瞬間を生み出しました。
しかし、
その熱はたびたび幕府の目に止まり、
「風紀を乱す」として禁止令が繰り返されます。
中には、「盲人と女性」の対決、
いわゆる座頭相撲と呼ばれる演出も登場。
視覚を失った男と、力強い女力士が土俵上で交差する。
その異形の対決は、江戸の庶民に強烈な印象を残したのです。
だが――
その人気が頂点に達すると、
「卑猥」「差別的」として、幕府によって禁止されていきます。
【力強き女たち:女力持ちの時代】
女相撲の力士たちは、ただ大きいだけではありませんでした。
彼女たちは、見世物として「女力持ち」としても人気を博していきます。
江戸・境町で米俵5俵を大八車ごと持ち上げた「柳川ともよ」。
釣鐘を持ち上げ、筆で字を書く「淀滝」。
どちらも、娼婦として生きづらかった女性が、力で自らの居場所を築いた存在でした。
彼女たちは、まさに“生きる芸術”。
力と芸を兼ね備えた、舞台の主役だったのです。
【禁令と消滅】
文政9年(1826)、一度は復活した女相撲。
「乳ヶ張」「色気取」といったユニークな四股名も登場。
やがて、女相撲は踊りや曲芸を融合させた総合芸能へと変化します。
派手なまわし、美しい甚九節の歌声――
それは、土俵の上の歌舞伎的スペクタクルでした。
しかし、明治時代の近代化の波は、女相撲にも容赦なく襲いかかります。
明治6年、政府による禁止令。
にもかかわらず、山形を中心に「石山興行」「高玉興行」など、
20以上の女相撲団体が誕生し、全国、そして海外へと巡業を続けていきました。
【最後の女大関――遠藤志げの】
昭和初期、女相撲最後の光がともります。
山形県出身の遠藤志げの。
「若緑」の四股名で石山興行の大関となり、全国で人気を集めました。
彼女は米俵を軽々と運び、家出して興行団に入門。
わずか3年で大関に上り詰めた、天性の力士でした。
しかし、太平洋戦争の勃発により、石山興行は解散。
彼女も引退を余儀なくされます。
その後、料理屋「若みどり」を開いた彼女は、
昭和32年、高砂親方の勧めで、大相撲の土俵に立ち、挨拶を行います。
皇后すら上がれないとされる土俵に、
かつての女大関が立った――
それは、女相撲の魂が再び、土俵に刻まれた瞬間でした。
【女相撲のその後】
【明治〜大正――近代国家とともに消える】
1868年、明治維新。
国家が近代化を進める中で、
女相撲は「未開で低俗なもの」とされ、次第に姿を消していきます。
都市部では消え去り、
わずかに農村部や旅芸人の興行として細々と残されました。
女性芸能者や遊女たちは、
「芸」と「闘い」を掛け合わせ、
新たな表現を模索します。
だが時代の価値観は冷酷でした。
“女が闘うことは恥”という認識が定着し、
公の場から完全に排除されていきます。
【昭和初期〜戦後――女の闘い、再燃】
昭和初期――
「女剣劇」や「女拳闘」といった形で、再び女性の闘いが舞台へ。
そして、戦後。
1948年、女子プロレスが復活。
1954年には、力道山のブームに支えられ、
女子も“スポーツ興行”として脚光を浴び始めます。
この時代の特徴は――
小柄な日本人女子と、輸入された欧米パワーファイターの対決構図。
ときに女子は負け、
それが“美しい悲劇”として人々に受け入れられていきます。
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